全邪馬連-関西支部



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[50] つれづれに

投稿者: 筑前 投稿日:2018年 6月 5日(火)11時29分18秒 zaq3d2ed1d9.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

[最近は邪馬台国畿内説が優位にあると思っているのですが?]

というご意見に答えて、

「まともに古代史を勉強した人なら、畿内説はあり得ないと理解できるはずです。近畿圏の考古学者の言うことはそのまま聞いてはいけません。」


「安本氏の考察もそうだが、最近近畿圏の考古学者の年代観は、信頼性において非常に疑義を生じている。関東地方や、一部九州地方の学者たちからは「関西ではもう考古学は死んだ」とか、「まるで学問の体をなしていない」と酷評されているのだ。「近畿圏の考古学者の言うことは当てにならない」と思っているのは、私のような邪馬台国=九州説の人たちばかりではない。邪馬台国=奈良説の学者たちの間でも、「関西では考古学はその学問性において崖っぷちに立っている」(東海大学北條教授)と危惧されているのである。
私見では、そう言われるのは関西では考古学が邪馬台国を中心に回っているからであり、「邪馬台国=奈良」を大前提にすべての発掘、すべての論文が評価されている観があるからだろう。もちろん関西でも、あまりに古く古墳の年代がさかのぼる事に異議を唱えている学者もいるが、彼ら少数派は学会でも関西考古学ムラでも冷遇され、なかば村八分のような状態に置かれている。
ちゃんとした大学の、ちゃんとした歴史関係学科をでて、一応社会常識はありそうに見える関西の学者たちが、こと邪馬台国となると、常軌を逸した発言や行動をとる。そしてそれを指摘されても意に介さないどころか、糾弾した機関や論者を非難し、文献との齟齬を指摘する声には「文献上の問題はシナの人間が書いたことであるから気にしなくて良い」とか「魏志倭人伝など信用できない」などという訳のわからない発言をするのである。魏志倭人伝を信用できなければ、そもそも邪馬台国論なども成立しない。

卑弥呼が生きていたのは明らかに弥生時代であり、弥生時代の近畿圏は銅鐸社会である。その影響は出雲や淡路島や東海地方にまで及んでいる。この社会は古墳時代とは明らかに一線を画しており、古墳時代の人々の社会とは隔絶しているように見える。もし大和が卑弥呼の時代に西日本を統一していたとするならば、古墳にどうして銅鐸が現れないのだろうか。奈良から糸島の一大卒をコントロールするほどの権威が既に確立していたのなら、銅鐸民族も当然支配していたはずである、古墳時代の社会にそれが反映しているはずではないか。また、弥生時代の奈良には鉄も絹もないと言う指摘には、関西の考古学者は前述のように「魏志倭人伝は信用できない」と逃げてしまう。箸墓古墳が3世紀の築造で、卑弥呼と同時代の遺跡だとするならば、関西であれだけ出土している銅鐸が一つくらい出てきてもよさそうものではないか。15万とも20万とも言われる我が国の古墳において、銅鐸が古墳から出土した例はひとつもないのである。古墳は古墳時代のもので、決して弥生時代の遺跡ではない。

九州の邪馬台国と同時代に、近畿では銅鐸を信奉する文化、民族がいて、彼らは纏向遺跡に住み、唐古鍵に住み、池上曽根に住み、滋賀に兵庫に山城にも住んで、銅鐸を信奉し、関西ネットワークを作り上げていたと理解した方が、弥生・古墳時代を中心とした古代社会の状況はすんなりと解明できる。弥生時代の終末期に、騎馬文化を持った新しい集団がどこからか日本列島に出現し、九州にあった邪馬台国を滅ぼし、あるいは邪馬台国と融合し、東を目指して近畿地方へやってきた。そして約 150年に及ぶ「大王」たちの戦いが続き、やがて奈良盆地に大和朝廷の萌芽を築きあげた。その過程で近畿圏の銅鐸社会は排斥され、銅鐸は廃棄物とともに、あるいは壊されて、あるいは完形のまま、山中や河川に廃棄されたのである。

近畿圏の考古学者たちは、一度邪馬台国や卑弥呼を離れて、そもそも日本には邪馬台国などなかったのだという観点にたって、銅鐸社会や近畿圏の弥生時代や古墳時代について考え直して見ると良い。その研究成果をこそ、我々歴史マニアが待ち望んでいるものなのである。」


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